ラジウス(Radius,Sweden,1913-1963)


No.15
No.20
No.21

[これまで不明だったラジウス社の歴史が「Classic Camp Stoves」主宰者Ross Mellows氏の調査によって明らかになった。氏の了承を得てその要約を以下に記す]

 1913年1月、プリムスの工場で労働争議が起こった。その時プリムスを飛び出した従業員達は同じスウェーデンのストックホルムに彼ら独自の会社を興した。社名を株式会社ラジウス(AB Radius)とし、初代社長にはプリムス時代に労組委員長だったヨハンソン(J.T.Johansson)が就任した。
 新興のラジウス社は工場を新築し、翌1914年には新工場からの製品出荷を始めた。しかしこの年8月、第1次世界大戦が勃発した。戦争によって輸出は困難になり、国内市場も灯油不足によって打撃を受けた。発足したばかりのラジウス社は、この難局を従業員のレイ・オフで乗り切った。
 やがて戦争が終わり(1918年11月)、解雇した従業員も工場に戻ってきた。ラジウスは第一次大戦後は海外の新しい市場を開拓しようとした。そして結果的には全生産量の90%が輸出されるようになった。しかしそこには既にプリムス、スベア、オプティマスといった旧来の会社が25年以上も前から同じような性能の灯油ストーブを供給するメーカとして存在していた。これらの先発メーカに対抗するためにラジウス社では製品の高品質化と技術革新に力を入れた。そしていくつかの新しい発明を製品に盛り込んでいった。それは内蔵クリーニング・ニードル、燃料計、安全弁等の新機能であった。
 1924年にはストーブの他にランタン、テーブル・ランプ、ヒータ、ブロー・トーチ等も出荷するようになった。その後も製品を多様化し、自動車用ギア・ボックス、電気製品、蒸気殺虫器等も製造した。1940年代には釣用のリールも製造した。
 第2次世界大戦後も高い品質の製品を供給していたラジウス社であったが1963年、遂に生産をやめてしまった。そして商標の使用権をライバルであるオプティマス社に譲渡した。しかし結局オプティマスではラジウスの商標は使われず、ラジウスの50年に渡る歴史は終了した。

 海外への輸出を進めていた後発のラジウスは、既にプリムス等の勢力が強かった欧米を避けて新市場を中東やアジア、日本に求めたのではないだろうか。1939年(昭和14年)刊行の日本の登山技術書には「PrimusとRadiusのストーブ・・・」という記述があり、古くから日本に輸出されていたことが分かる。しかもラジウスはプリムスに比べてより多く日本に入ってきたものと思われる。このため日本の古い登山家の殆どが「携行ストーブ」と言えば「ラジウス」を連想する。ラジウスというのは「メーカ名ではなくて登山用ストーブ全体のこと」だと誤認している登山家も多い。したがってPrimusでもOptimusでもSveaでも、あるいはガソリン燃料であるPhoebusや場合によってはLPガス・ストーブでも全て「ラジウス」と呼んだりする。英語圏でPrimusが携行ストーブの代名詞になっているのとは好対照であろう。

 1960(昭和35)年刊行の「登山用具入門」(参考文献1-2)によると当時日本に輸入されていたラジウス・ストーブはNo.17, 20, 21, 22, 43であった。

 ラジウス(Radius)は「光線、放射線」を意味するラテン語であり、ラジウム(radium)や英語のradiation(発光、放射)の語源でもある。




ラジウスのカタログからの抜粋 (資料提供;「輝けキャンプサイト」管理人00L氏)