シェンク(SCHENK)
 初代(the 1st.);Christian Schenk(1861〜1926)
 2代(the 2nd.);Fritz Schenk(1894〜1973)
 シェンクはアイガーやユングフラウで有名なグリンデルワルト(Grindelwald)のピッケル鍛冶であった。初代の名前はクリスチャン・シェンク(Christian Schenk)。端正な曲線と優美で鋭い作風で知られ、山道具の一つであるピッケルを芸術品と言える位までにした鍛冶職人であった。
 1921(大正10)年9月、慶応大学山岳部OBの槇有恒は欧州遊学中に3人のガイドと共にアイガー東山稜(ミッテルレギ稜、グリンデルワルトから見て左の稜線)初登攀という快挙を成し遂げ、同年帰国した。その時、槇はスイスから持ち帰ったシェンクを紹介した。日本にシェンクが入ってきたのはこの時が最初とされている。この時から日本では「シェンクは世界最高のピッケル」と称されるようになった。(槇有恒の経歴についてはhttp://www.sendainiko.com/hyaku003.html に詳しく出ている)
 その数年後ヨーロッパに渡った松方三郎が帰国後書いた「アルプスと人」(参考文献2-2)によると「シェンクの作も若い頃のは先の短いずんぐりしたもので、今からいえば大いに田舎臭い感じのものだが、反対にいえば後年のいわゆるシェンク型は、余りに美しく、そのためにどこか弱い感じがするのではないかといった批評が出るかも知れない」と述べている。また松方と一緒にアルプスを登った浦松佐美太郎の「たった一人の山」(参考文献2-1)では「(シェンクは)病んで鶴のように細くなった体を、杖で支えつつ、私のピッケルを持って来てくれた。・・・晩年のシェンクの作は、(その)体のように細かった」と記してある。
 初代シェンクの時代のピッケルはシャフトをヘッドに貫通させて上から同種金属の蓋を被せるいわゆる「頭抜(ずぬ)き」構造が一般的だった。これはピッケルが斧から発達してきたことを物語っているが、どうしても頭抜きでなければならない理由が乏しかったので時代と共に次第に頭抜き構造はすたれていった。

 2代目シェンクはフリッツ(Fritz)であった。前述の松方の著では「(初代)シェンク亡き後、近頃では息子のシェンクも立派なピッケル作りになっているとのことだ。・・・老シェンクの後継になれるかどうかと、少なからず心配されたが」と言っている。
 また黒田圭助著「ピッケルのカルテ」(参考文献6-1)によると2代目は銘に「F.シェンクと刻んだ」らしい。そして戦前は2代目シェンク作も日本に入って来ていたらしい。
 戦後1961(昭和36)年にグリンデルワルトを訪れた新田次郎が書いた「アルプスの谷 アルプスの村」(参考文献2-3)によるとガイドのシュトイリの言葉として「二代目は駄目だ。全然ピッケル作りに興味を持たないんだ」と書かれており、その時点では2代目シェンクは既にピッケル作りをやめていたことが窺える。初代および2代目共に製作本数は少なく、したがって現存数は極めて少ないと考えられる。
 新田次郎の小説「蒼氷」の冒頭にシェンクのピッケルが登場する。
   初代シェンク


   2代目シェンク


  槇有恒のシェンク(頭抜きの鋲が見える)
  「山と博物館、第32巻第2号」(参考文献7-1)から



初代作(1) [東京都練馬区在住、田村朋之氏所蔵]
 ヘッドの描く優美なカーブと細身のピックから初代シェンク晩年の作で1920年代に鍛えられた物と考えられる。ヘッド長30.0pで見事な頭抜き構造になっている。ブレードは平刃で三角形、ピック先端は鋭く尖り、典型的な古典ピッケルの形態をなしている。












初代作(2) [東京都在住、N氏所蔵]
 ヘッド長27.5pとやや小振りなシェンクである。頭部はこれも頭抜き構造になっていてブレードは肩張り扇形である。これも1920年代の作と考えられる。