門田(かどた)
   初代;門田 直馬(すぐま、1877〜1959)
   2代;門田 茂(1910〜)
   3代;門田 正(1932〜)
 門田は仙台の山内と並んで日本を代表するピッケル鍛冶であった。門田家は代々土佐の甲冑師であったが明治維新後の時代変化によって新しい仕事を求める必要があった。このため直馬の父の時代1904年(明治37年)に北海道に入植した。最初は甲・鎧(よろい・かぶと)製造の技術を生かして町の鍛冶屋として開拓用農機具を作っていた。
 1929年(昭和4年)、北海道大学予科学生だった和久田弘一がアイゼン製造の依頼に門田鉄工所を訪れたことから門田の山道具作りが始まった。このアイゼンが好評だったことから翌昭和5年にはピッケルの製造も開始した。手本はシェンクとエルクであり、材料はチェコのボールディ社製のニッケル・クロム・モリブテン鋼を用いた。門田のピッケルは始めは北大山岳部の求めに応じて作っているだけであったが1932年(昭和7年)頃から市販されるようになり、この頃から銘が付くようになった。銘は特殊鋼(ニッケル・クロム・モリブテン鋼)にはKADOTA SAPPORO(戦後はSAPPORO KADOTA)とし、炭素鋼を用いた物にはSAPPORO BELGHEIL K.I.W.とした。ちなみにBELGHEILはドイツ語で「山万歳」であり、K.I.W.はKadota Iron Worksの略である。特殊鋼で作られたピッケルは数が少なかったためにBELGHEIL銘の方が数が多い。
 1940年(昭和15年)にピッケルは禁製品となり、門田はいったんピッケル製造から遠ざかった。戦後は1948年(昭和23年)から再びピッケル製造に取り組むこととなる。戦後すぐの作風は戦前の物と同様であったが1952年(昭和27年)頃からは登山界の要請に合わせてブレードをカップ型にした物なども作っていった。
 3代に渡って引き継がれた門田のピッケル製造は1986年(昭和61年)、正の病によって終焉を迎えることとなった。総製作本数は約5万本と云われる。



1950年代(昭和30年頃)に作られた物でヘッド長330oのいわゆる尺1寸物である。

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